気ままに趣味旅行

面白いコト「拡がる/拡げる」

本音を言えないくらいなら

どうもhiroakiです。

 

改めて、表現というものを思い返す出来事がありました。こちらの記事です。

ibaya.hatenablog.com

素敵でしたので、今回は実験的に物語風に書いてみます。語尾も「~だ」とした方がっぽいのでそうします。 

 

冷水で顔を打つような体験をいつも求めている

雲行きが悪い、と思った。家を出る前、空は晴れていた。絶好のドライブ日和となるはずだった。私は南の灯台を目指していた。途中で休憩しながら、持ってきた小説を読み、少しずつアクセルを踏んだ。

誰かが「文学なんて」と言った。海から突き出ている角のようなものを眺めながら、そんなことを思い出していた。

日南海岸は冬の間もサーファーを受け入れている。自分もそんな大らかな人になりたかったが、結局はなれないだろうと思った。心の冷えた自分が誰を受け入れることができるのだろう。それに元からそんな大きな人間ではないんだ。そういうことに今さらながらに気がついた。

友人は私に「君の話はブンガクじゃない」ときっぱり言った。母は「文章でご飯を食べるなんてできないわよ」と現実を叩きつけた。父は「お前のクソみたいな話に誰が金を出すんだ」と言った。誰かは「君は頭がおかしい」と言った。酸欠で頭がくらくらした。それが私の「表現」だった。

私は何かを表現するということは何て難しいことなのだろうと、思った。「文学なんて」と誰かが言っていた。それが誰の声なのか未だに分からない。波のように穏やかに消えてくれればいい。そうすれば全てを許すことができる。それができないから困っていた。

しばらく走ると、山々に生える草を食む馬が見えてきた。都井岬だ。私は一目散に灯台を目指した。いつのまにか空は晴れていた。

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見たところ、駐車場に車は一台だけ。灯台に入るとき、出て行く彼らとすれ違った。その他には誰もいなかった。一番高いところに立って、太平洋を望み、息を吸い込むと、胸の奥から何とも言えないにおいが吹きだした。古箪笥の奥の防虫剤のようなにおいだ。そういう口に絡まった髪の毛のような今までを海の向こうに吐き出した。けれど、少しも楽にはなれなかった。

正直言ってこれまでの自分にこれっぽちの自信も持てないまま、ここまできた。いつまでも、どこに行くあてもないままだ。

少しだけ煙草を吸った。白い煙が空へ、海へ消えていった。それは小さく浮かぶ遠くの汽船の煙に混じった。煙草の火は強い風の中に消えた。

 

自分には文化的な背景も何もない

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昔、文学賞がほしかった。あの本棚の中に自分の名前が並ぶこと、それがささやかな望みだった。私のヒーローはずっと昔から、ウルトラマンでも仮面ライダーでも、時代を賑わせる芸能人でもなく、作家たちだと決まっていた。私の人生を振り回して闇を見せ、魔術師のように懐から光を出して私を救い、また地獄に落としたその彼らだ。その隣に私も並びたかった。物欲も名誉欲もないが、そんな望みを抱いていた。

ただ、実際に表現するということは、思ったより簡単なことではなかった。表現とは、裸で人の前に立つことに似ている。ある人にとっては汚いもの、あるいは美しいものを誰かに見せることになる。すると賞賛や非難を浴びる。自分には教養も何もないので、非難されることの方が多かった。ヒーローどころか愚か者の汚名を着せられるかもしれない。そんな表現への恐怖に押しつぶされそうになりながらも、目の前のものを表現したいと思ってきた。

最近、東京の大学に行った友人がニューヨークへ行って学び、帰ってきて女優兼画家を始めたという話を耳にした。ニューヨークに行って画家をやる、そのことは良いことだと思うけれど、どうして彼女はそんな自分を日本で初めから「表現」しなかったのだろうと思う。ひとつは、表現への恐怖に彼女自身が抗えなかったのではないかと推測する。

あとひとつ言えることがある。彼女はニューヨークへ行きさえすれば自分の思ってきることを表現できる、あるいはその力が身につくと思ったのかもしれない。しかしニューヨークはただの町だ。ニューヨークにしろ東京にしろ、それはただの町に過ぎない。ただの街へ行き、ただの町へ帰る。大したことはない。誰かがその町を概念だと言っても私は信じない。誰かが人を飲み込む生物だと言い張ってもそれは虚像でしかないと思う。

 

ニューヨークの話はもういい

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帰りに、サンメッセに寄って帰った。モアイ像を見るだけなのに入園料が高すぎる。手にした入園券を苦虫のように見つめ、なくなった金を思い浮かべた。

海を背にして立つモアイ像を見上げると、小学生のころ読んだモアイ像の話を思い出した。太平洋のずっと向こうにあるまだ解読されていない古代文字や、謎の多い彼らの生活を空想した。モは「未来」、アイは「生きる」という意味を持つ。未来に生きる、それがこの巨像に込められた強いメッセージだ。しかしその像を作ることに注力し過ぎた結果、彼らの文化は途絶えてしまった。

モアイ像を見ていると自由の女神を思い出した。だけど、ニューヨークの話はもういい。

モアイ像から学んだのは、未来ではなく、今を見つめるということ。目の前のものをただひたすら表現すればそれでいいこと。それが誰かに届いて人を救うかもしれない。

ただ、表現する時は、あまりデカく見せすぎない方が良い。つい、人は面白おかしく話したくなる。それは自分自身にとって良い影響を与えない。こんな風にいうと、ねじり菓子のような連中が「きれいごとばっかり言うな」とか「口ばっかりだ」とか「格好つけやがって」と私に暴言をふるってくる。それは結構痛い。「病んでるのか」と言う人までいる。私はそれらを真に受け止め、あるいは攻撃が止むまで、亀のように頭を抱え丸まるしかない。耐えきった先には、まるで酔っぱらって記憶をなくした路上で、朝を迎えた時のような光景が広がっている。そこにはほんとうに何もない。ほんとうに何も残っていないのだ。表現というのはそういうものだ。受け入れられるか非難されるか。そして結局はそこに何も残っていないし残すこともできない。それに誰にでも受け入れられるようなものは表現ではない、虚像だ。

私は、誰かの表現に触れることは体験に似ていると思う。様々な表現のうちから、心の洗われるような気づきをいつも探している。それは冷水で顔を打つような体験だ。それは、これまでの自分の考え方を正すような気づきだ。ああ、これまでの自分は間違っていたんだ、と思えるような、そんな救いだ。長く続いた闇から見える小さな光のような。そんなものを求めて目の前のものを見つめている。注視すれば、どんなものにもその一瞬を見つけられるはずだ。逆に言えば、あなたはその一瞬を描くためだけに、苦悩すればいい。ただそれだけでいい。

 

本音を言えないくらいなら

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本音を言えないくらいなら、何も言わなければいい。そんなことを言うと、ねじり菓子は「極論だ」とまた暴動を起こすだろう。だけど、本当の自分を殺したあなたに一体何ができるんだ?と熱を込めて言いたい。自分を救えない人間に、他人を幸せにする力は備わっていない。

しかし本音は万能ではない。本音は時に、暴力のように人を殴る。だから、彼らは「痛い」と言う代わりに私のような裸一貫の人間を殴りつける。私もそれを受け止めようと思う。どうせ、そうなるはめになる。それがものを言うということだ。絵を描くということだ。表現するということだ。どうせ何も言わなくたって彼らは私を殴ろうとする。私がニューヨークを殴ったように。それならば、言いたいように言うくらいでいい。それでいい。

世の中は価値観の押し付け合いでできている。私はそのことに、本当にうんざりしている。本音を言おうとすると、喉の奥に何かが絡まったようにうまく言葉が出てこない。争いを避けるためだ。そうして段々と、自分の心の声を押さえつけてゆく。そうしていつの間にか自分が自分じゃなくなっている。そうなったら手遅れだ。そうなる前に、自分のために自分に正直になった方がいい。本音くらい、そう構えずに言ってしまえばいいのだ。本音を言えない相手とは、結局そんな関係だ。始めからなかったも同然なのだ。

もう一度言う。本音を言って、徐々に本来の自分を取り戻そう。自由に表現することを自分のために許していこう。人の表現を受け入れよう。時に意見をぶつけよう。少しずつでいい。それが大切だ。

 

 

感想

改めて、やっぱ「いばや通信」さん素晴らしい笑笑

今回は冒頭で紹介した「いばや通信」さんの記事に感化されて、実験的に物語風の記事を書いてみました。自分の経験を元に書きましたが、内容はふぃくしょんです。

今後は、評判次第でこういった書き方も採用してみようかと思います(笑)

では。